正倉院は日本最古のログハウスではなかった

1260年以上前に建てられ、今なお美しい姿を残す正倉院。久しく日本最古のログハウスといわれてきたが、実は日本にはもっと古くから建っているログハウスがあった。

文・写真 押田雅博

正倉院は美術工芸品の収蔵施設

南倉、中倉、北倉の3つの倉が組み合わさった正倉院。内部は2階建てになっている

大仏で有名な奈良・東大寺。その広大な敷地の奥の方にひっそりと建つ正倉院は、聖武天皇・光明皇后ゆかりの品々をはじめ多数の美術工芸品を長く収蔵してきた。美術工芸品の中には、中国をはじめ、インド、イラン、ペルシャ、ローマなどの地域の要素が含まれていることから、正倉院はシルクロードの終着点であるともいわれている。  また、太い材を積み重ねた校倉づくりのため、ログハウスファンの中では、日本最古のログハウスとして知られている。日本ではログハウスのように丸太材を積み上げる構法を校倉づくりと呼んでいる。世界を見回してもこれほど古いログハウスが現存している例はないかもしれない。 正倉院は、間口33m14㎝、奥行き9m39㎝、高さ13m72㎝という巨大な倉で、見る者はその迫力に圧倒される。文献のうえでも遺構のうえでも日本最大の校倉づくりである。一見すると、ひとつの建物のように見えるが、実は3つの倉でできている。北倉と南倉は、校倉づくりだが、中倉は板材を挟み込んだ板倉になっている。中倉の北と南方向の壁は、北倉、南倉の壁と共有になっており、東と西方向のみが板倉づくりだ。北倉と南倉の校倉づくりの校木は、太さ約30㎝という材を二等辺三角形の頂点をカットした截頭(せっとう)形になっている。当時の校木は二等辺三角形が一般的で、現在でもこの正倉院をはじめ30棟以上が存在している。二等辺三角形の校木は丸太を製材するときに効率よくカットできるほか、室内が平面になって使いやすいことから選ばれたようだ。

湿度調整をする校倉づくり

大切な宝物を収蔵する際に校倉づくりが選ばれた理由は、室内環境を最適に保つ乾湿調節機能があるからといわれている。雨天など外部の湿度が高いときには丸太が膨張して、湿気が室内に入るのを防ぎ、晴天で外気が乾燥している時には、丸太が収縮してすき間から乾いた外気が室内に入り、絶えず室内の湿度調整をしているからだという。そのため当時は倉として、特に貴重なものを所蔵する宝蔵として多く用いられてきた。しかし、正倉院では現在、鉄筋コンクリートづくりの東宝庫が昭和27年、西宝庫が昭和37年に造られ、正倉院の美術工芸品はそちらに収納されている。 この構法がいつごろ生まれたのかは不明だが、弥生時代の登呂遺跡や山木遺跡にも同様の構法で造られた倉があったことから、かなり古くから用いられてきたようだ。そもそもログハウス構法自体はシンプルな構法のため、世界中で造られてきたといわれている。

唐招提寺の経蔵が日本最古のログハウス

唐招提寺創建以前からあった経蔵。新田部親王旧邸の米倉だった

では、正倉院はいつごろ建てられた建物なのか? それを伝える正確な記録はないが、天平勝宝八歳(756年)の9月に光明皇后が夫である聖武天皇の遺愛の品々を宝庫への蔵入れを行ったことから、創建は756年前後と推測されている。 しかし、もっと古いログハウスといわれているのが、唐招提寺にある経蔵である。唐招提寺は、多くの苦難の末、唐から来日した鑑真和尚が天武天皇の皇子である新田部親王の旧宅地を下賜されて、天平宝字3(759)年に開いた私寺が始まり。経蔵は、新田部親王の時代からあり、以前は米蔵として使われていた。新田部親王は、天平7(735)年に薨去(こうきょ)。少なくともその前から建っていたことは間違いなく、日本で最古のログハウスは唐招提寺の経蔵なのである。 とはいっても、経蔵は米倉だったので、小ぶりでどうしても正倉院の迫力には負けてしまう。どちらの年代が古いかという単純な比較だけでは、その価値を決めることにはならない。いずれもおおらかな天平時代の栄華の名残の建物として、長い歴史に育まれた日本独自のログハウスの世界を愉しみたいものだ。

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