知ってるようで知らない!? 日本と世界のログハウスHistory 【その② 世界で初めてマシンカットに挑んだ5人の兄弟】

1958年に世界で初めてできたマシンカットのログハウス。そして、1962年に機械加工した丸ログが生まれて爆発的にヒットをし、フィンランド国内ばかりでなく世界中に輸出された。これは、マシンカットのログハウスづくりを夢見た5人の物語である。

写真提供/(株)ホンカ・ジャパン

文/押田雅博

前身は「サーレライネン兄弟製材所」

創業当時の加工工場

どの国のログハウスも市場を広げていく過程で同じ道を歩いている。始まりはいずれもハンドカットで、年数を重ねるごとにマシンカットが主流になっている。ピーリングナイフで皮を剥き、斧(現在はチェーンソー)で丸太を刻んでいくハンドカットは、ワイルドな趣が人気だが、ログビルダーの熟練した技術力が必要なうえ、膨大な時間がかかり、生産性は悪い。そのため、大量生産ができるマシンカットに人気が傾いていく。日本も同様の道を歩いてきた。ログハウス創世記は、ハンドカットが人気だった。日本独自の材料の調達方法として、当時コンクリート化が進んで廃材となった電柱も使われていた。そして手間がかかるハンドカットの人気が次第に下がり、マシンカットが主流になってきた。 といっても60年ほど前にはマシンカットは存在しなかった。初めて作られたのが、フィンランドである。フィンランドのハットゥヴァ―ラに住んでいたタハヴォ・サーレライネンには、8人の子どもがいた。6人の男の子と2人の女の子だ。母親のシーリはお産が原因で亡くなってしまい、タハヴォがひとりで8人を育て上げた(長男は17歳のとき結核で死去)。しかし、冬戦争(1939年にソビエト連邦がフィンランドに侵攻した戦争)で家屋を失い、農地も大きなダメージを受けて家計は苦しく、5人の子どもたちはみんな手に職を付けて、自立していかなければならなかった。

サーレライネン5人兄弟。左からアルヴォ、ヴィリヨ、ネストリ、レイノ、エイノ

最年長のヴィリヨは、夏は大工、冬は丸太運びをしながら、自宅で農業をしていた。ハンドカットでログハウスを自作した経験があり、いずれはログハウスを大量生産することを夢見ていた。ネストリは父親から農業を継いだ。アルヴォは仕立て業、エイノは塗装工、レイノは父親から相続した鋸盤を使って製材所を営んでいた。しかし当時の製材業者は雨後のタケノコのように林立している状態にあり、通常の製材だけでは勝ち目がなかった。そこでレイノはカッリオ(機械製造会社)の5枚刃プレーナーを購入し、1958年に世界で初めて木材を平削りしたマシンカットのログハウスを作った。 それぞれの道を歩んでいた5人の兄弟だが、いずれも世の中の工業化の波がすぐ近くにまで迫っていることをひしひしと感じていた。そこで5人で「サーレライネン兄弟製材所」を設立。社長はヴィリヨが務めた。

子どもが乗っている巨大な車輪のトラクターを丸太の加工機に改造し、世界で最初に機械加工した丸ログを作った

会社が大きく飛躍したきっかけとなったのが、丸太の断面を丸く加工をした丸ログであった。木材を丸く加工する機械すらない時代だったので、5人はまず機械づくりから始めた。トラクターを利用し、丸ログ加工機とノッチ加工機を自社で開発したのだ。丸く加工することで、ログの表面には美しい波型の模様ができ、「表面模様つきログハウス」として発売され、大人気となって製材所には大量の注文が舞い込んだ。角ログ開発から4年経った1962年のことである。1967年には、社名を「ホンカラケンネ」と改名。輸出を見越して新規工場を建てたために生産力が上がり、1973年には年間750棟という大量生産を可能にした。

当時の大統領であったケッコネン氏が視察にやってきた

さらに近年はログハウスのネックともいわれたセトリング(木の乾燥により、ログの収縮と自重により壁が下がること現象)が生じないノンセトリングログも開発。このホンカラケンネは、今や世界50カ国以上で8万5000棟以上のログハウスを作り、世界最大のログハウスメーカーとなっている。

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